私たち吉田製材では、奈良県の吉野川上流域で行われる「吉野林業」で育った吉野桧・吉野杉を主な材料とし、長年に渡って製材を行ってきました。
古くから質の良さで定評のある吉野材ですが、その木を生み出す吉野林業が他産地の林業と具体的にどう異なるかという点については、あまり知られていないのが現状です。そこでこのページでは、吉野林業と吉野の木(吉野桧・吉野杉)についてご説明させていただきます。
吉野林業の歴史
吉野林業とは、広義には吉野郡全体、狭義には吉野川上流域に位置する川上村・黒滝村・東吉野村で行われている林業のことを指しています。
吉野郡の地質は、リン酸カリウムとケイ酸塩類を豊富に含み、保水と透水性が極めて良好なもの。
加えて、年間雨量は2000mm以上、年間平均気温14℃、冬季の積雪30cm以下という、材木の生育に最適な自然環境を備えています。
足利時代末期(1500年頃)には、吉野地方で造林が行われた記録がありますが、一般に吉野地方の木が大量に搬出されるようになったのは、天正年間(1573年~1593年)に豊臣秀吉が、大阪城や伏見城をはじめとした畿内の城郭や寺社仏閣などの大規模工事に取り掛かり、普請用の木の需要が増加し始めた頃からであるといわれています。
需要増加により森林資源が減少したことから、吉野では造林が行われるようになり、次第にその区域は拡大していきました。
全国的に大乱伐が行われた明治維新前後にも、吉野地方はその風潮に乗らず、高齢林が維持されました。
その後、明治10年前後(1877年)の材価の上昇期に高齢林はやや減少したものの、再造林も行われ、桧と杉の人工林はさらに拡張していきます。
基本的には、長い時間をかけて木を育てる長伐期施業が行われていますが、1940年頃から樽丸(酒用の樽)から柱角への短伐期になり、1970年代の吉野材ブランドの材価高騰時代、1980年代の桧・杉集成材単板時代と大別されます。
しかし、1本1本の木に手をかけ大切に育てる吉野林業の精神は、今も木に携わる人々の間で強く引き継がれ続けています。
↑かつての吉野林業で行われていた、木材を山から川に流す「堰出し」と、丸太を筏に乗せて川を下る「筏乗り下り」
吉野林業の特徴
極端な密植と弱度の間伐を数多く繰り返し、長い時間をかけて1本の木を育てることにあります。
もともとは、主に酒樽・樽丸の材料としての生産を目的としていたため、中の酒が漏れたり染みたりすることのないよう、年輪幅が狭く(1cmに8年輪以上)、均一である木目を尊重したためと言われています。
木材としても完満通直(木の根元から先まで太さが均一で真っすぐであるという意味)、節の無いものが多く、これは吉野林業が持つ優れた技術と自然環境の結果です。
また、その発達の過程における借地林制度と村外森林所有者による経営、山守制度(管理制度)なども大きな特徴の一つと言えるでしょう。
↑かつては吉野材を用いて多く作られていた樽丸 |
借地林制度 借地林制度の始まりは、元禄年間(1688年 - 1704年)頃と言われています。 当時の吉野地方は木材生産の利益が低く、衣食の維持も困難になり、村外の商業資本・農業資本に依存するしかありませんでした。 そこで自らを守るために生まれたのが、土地の所有権と使用収益権を分離する方法、つまり借地林業制度です。 借地契約方法には、立木一代限り・定期・年限一代限りがありましたが、今では一部を残すのみになっています。 山守制度 山守制度は、借地林業制度の発達と村外所有者の山林所有に伴い生まれた管理制度です。 山守制度とは、一般に村外所有者が、山林所在の地域住民の中から信用のある者を選んで山守とし、保護管理を委託する制度です。 山守は所有者に代わって人夫を集め、彼らを指揮管理して木の撫育を進めます。 立木一代間の管理報酬として、日給・月給等でなく、立木皆伐時に3~5%が山守料として支払われます。 また、慣例として立木は優先的に購入でき、木材流通にも従事します。 山守の職務は山林の保護管理から植栽の手入れ、間伐等の労務及び資材の調達・労務者の指揮管理にまで及びます。 また、山林所有者の伐採決定に対しても、林業経営・林業技術の実務を担当している山守は大きな発言力を持っています。 借地林制度が崩壊しているのに対し、山守制度は、森林を経営していく上で山林所有者、山守双方にメリットがあり、実質かつ有効に機能しています。 |
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大径木を生む吉野林業の育林技術
樹種及び品種 いわゆる吉野杉の品種は明らかではなく、現在造林されている吉野杉は、もともとの自制の杉・春日杉・屋久杉などの優良種を導入し、改良したものが起源といわれています。 植裁 植栽本数は、最近の傾向としては7,000~8,000本/ha程度で、奥山ではやや少なくなっています。 |
保育
下刈り(=小さい苗木を保護するために雑草木を刈取ること。手入れ刈りとも)は、植栽後3年までは年2回、4~6年の間は年1回行われます。
下刈りの時期は、2回刈る際は6月下旬と8月上旬、1回だけ刈る際は8月下旬。谷から等高線沿いに一人2m幅で刈り進み、峯へと登っていきます。
刈株を低くし、特に苗木の根元に対しては、細いつる草まで丹念に刈り取られます。
つる刈りは6~8年目に行われ、9~13年目には、吉野独特の「ヒモ打ち修理」と称する名前の下枝の切り落としと、劣悪木の伐倒が行われます。
枝打ちに先立つヒモ打ちは、10月~3月までの間に行われ、打ち落とす高さの目安は約1.5mで、林の中の密度の調整と共に、林の中での作業をしやすくする目的で行われます。
苗木の生育を妨げるような木や生育の悪い木、曲がって育った木などを除去する本格的な除伐は、14~17年目に押しつぶされた木や形の悪い木、花や球果のついてしまった杉などを対象として行い、本数は同時に植えた木のうち25~30%程度となります。
間伐は、杉は16~20年目から始め、40年頃までには3~5年に1回、さらに70年頃までには7~10年目に1回、以後は10~20年に1回の割合で行います。
このうち、30年前後くらいまでに行う間伐は、保育を目的として行われ、40年以後に行われるものは、利用を主な目的としています。
桧は20~25年目と30~35年目にそれぞれ20~25%程度に行い、以後は成長に応じて行います。
最近は、小径材・間伐材の売行き不振によって除間伐の遅れが見られるようになり、この対策が緊急課題となっています。
吉野 林材業の流れ
年代 | 内容 |
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1500年頃 (文亀年間) |
川上村で人工造林が始まる。 大阪城・伏見城の建築用材として吉野材が使われる。 筏流し時代:大阪で木材問屋が成立し、木材市場が開かれる。 |
1670年 (寛文年間) |
銭丸太の製造が始まる。 |
1700年頃 (元禄年間) |
借地林業・山守制度が始まる。 |
1720年頃 (享保年間) |
樽丸製造が始まる。 |
1862年頃 (文久年間) |
四国巡礼僧・杉原宗庵が吉野地方の樽丸割りを見て、下市町にて割箸の工法を伝授。 |
1865年頃 (慶応年間) |
全国的に大濫伐が流行したが、その風潮に乗らず高齢林が維持された。 木材需要が増し、材価が高騰する。 村外者の山林所有者が増える。 |
1877年頃 (明治10年) |
杉の林地乾燥が行われる(3ヵ月間) |
1915年 (大正4年) |
東吉野村小川にて、人工絞り丸太「小川絞」が創始。試行錯誤の人造絞りの研究が進められる。 この頃、ほぼ現在の大山林所有形態になる。 索道による集材が始まる。 |
1928年 (昭和3年) |
吉野鉄道が吉野山まで延長される。 この頃、樽丸生産が最盛期を迎える。 |
1939年頃 (昭和14年) |
吉野貯木場の開設 |
1940年 (昭和15年) |
樽丸から柱角に生産目標が移行する。 この頃、磨き丸太生産が最盛期を迎える。 |
1951年 (昭和26年) |
筏流送が終わり、トラック輸送となる。 山守の素材業への進出が増える。 |
1954年頃 (昭和29年) |
桧箸の製造が開始される。 |
1959年 (昭和34年) |
伊勢湾台風が襲来し、甚大な被害を被る。 |
1970年代 (昭和45年~昭和54年) |
ヘリコプター集材が始まる。 吉野材のブランド化を進める。 吉野材の品質管理販路の拡大のため、吉野材センターが設立される。 |
1980年代 (昭和55年~平成元年) |
桧・杉集成材単板(集成材の化粧板用の原板)の製品化。 |
1985年 (昭和60年) |
3月に冠雪被害を被り、激甚災害指定を受けた。 |
1998年 (平成10年) |
9月に発生した台風7号により、激甚災害指定を受けた。 吉野林業地帯も大きな被害を受けた。 |
2000年 (平成12年) |
奈良県林業機械化推進センターの開所。 |
2006年 (平成18年) |
奈良県森林環境税導入。 |
2011年 (平成23年) |
8月~9月に発生した台風12号15号の降雨による山腹崩壊で死者行方不明者を出した紀伊半島大水害により、吉野林業地帯が大きな被害を受けた。 |
2014年 (平成26年) |
林業遺産に認定される。 |
2016年 (平成28年) |
4月:吉野林業地帯を含む2町5村が、日本遺産に認定される。 5月:川上村を含む1市1町5村で構成された大台ケ原、大峰山、大谷杉がユネスコエコパークに認定される。 |
参考資料
奈良県・吉野林業パンフレット
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